屋根から尾根へ〜縦走への挑戦〜 www.yaneone.com

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単独縦走への道


以下は高校入学以降の時代区分です。

時  代 年 度 概    要
高校時代 89年〜91年 高校時代。大学進学を目指す一方で山岳部での活動を行っていました。
大学時代1 92年〜94年 大学時代前半。単独縦走を始め、大雪縦走を目指していました。しかし学業は劣等生そのものでした。
大学時代2 95年〜98年 大学時代後半。卒業を目指す一方で南アルプス全山縦走を目指していました。
就職を目指すが 99年〜02年 卒業して就職を目指し、一旦は決めたが・・・・・。北アルプス主脈全山縦走まではなかなか山行も思う様に進みませんでした。
そして・・・・・ 03年〜05年 新たなる進路を目指しています・・・・・。縦走は八ヶ岳・大峰山脈等。
??? 06年〜 ???


私が単独縦走を始めてから南アルプス全山縦走に至るまで、まとめてみました。

<高校入学、山を志ざしそして大雪の夢を描く> ’89.4〜’92.4

 私はかねてより父に山や海といったところに連れられ、親しんできた。私が中学生の時、「(山が好きだったら)山岳 部に入ってみれ」と言われ、その時は興味があったのかその気になった。そして’89年、目指していた進学校に合格 し、入学して間もなく山岳部に入部した。ゴールデンウィークに行われた私にとって初の山行の直前に父が軽登山靴を 買ってくれた。その山行は札幌周辺の山(春香山〜奥手稲山)の2泊3日の日程で、特に山奥にある奥手稲山の家で のひとときが思い出に残った。こうして次々と山行に参加し、夏休みに初めて大雪山行(トムラウシ山〜忠別岳、トムラ ウシ温泉より入山)に参加した。トムラウシ山に至るまでが雨の中の辛い道のりだったが、それを乗り越えて頂上に立 った達成感や、大雪の下界にはない別天地といった雰囲気に感動した。それからというもの、すっかり山の虜となり、よ り本格的な大雪縦走をやってみたいと思い、それを夢ともした。

 しかし、そう簡単にうまく事は運ばなかった。’90年、私が高校2年となり、春香山で新入生歓迎登山が行われたが、 新入部員はほとんど入らなかった。そして6月に私に山を勧めてくれた父が3ヶ月間の入院生活の末、亡くなった。享 年48歳、まだ若く早すぎる死であった。更にこの夏の山行は当初幌尻岳だったが、OB1人呼んでまで行った山行で、 彼がしばらく山から離れている事もあって急遽富良野岳・十勝岳に変更した。だがそれも登山口の十勝岳温泉でホエ ーブス(ガソリンストーブ、近年復刻された)のパッキン不良による炎上で使用不能とわかり、即中止となった。日ごろか らしっかり勉強しなかった事が裏目に出た。その頃から自分の風向きがおかしくなり、行動が変になり、当然の結果を もたらしていった。

 9月末の札幌岳の大会も1・2年の男子部員がいない事により、私だけが参加できなかった。それからというもの、男 子部員獲得等山岳部の事ばかり考えるようになり、部室に籠もるようになった。学業成績も苦手科目を中心にじり貧に なっていた。このペースでは進級さえ危うかった。又、秋頃から空腹時にお腹が痛むようになった。胃薬位ではいくら飲 んでも直らない。悪い事ばかりが続き、そのストレスが原因か。冬休みに病院にいくべきだったが。当時唯一自慢でき る事は皆勤賞のペースであった事だった。自分に自信が持てず、これだけが目標といってもいい位となった。それだけ に我慢して休まず出席だけしていた。

 ’91年となり、状況は一向に回復の兆しさえ見えないままだった。2月に突如暴挙を演じてしまった。社会科の職員室 入口の所で習っている地理の先生に対し、約5m先で登山ナイフを向けたのだった。結局その日がこれまでいた高校 での最後の日となった。あともう少し辛抱していれば・・・・・。もう時既に遅しだった。折角頑張って入った高校を、最悪 の形で去る事となり、しばらくはショックから立ち直れなかった。それでも新設されたばかりの単位制のある別の高校の 編入試験を受けた。結局合格し、編入する事となった。

 4月から新天地でのスタートとなったが、これまでいた高校とは180度雰囲気の変わる所の様だった。まともに大学 を目指している人は少なく、授業をサボっている人も少なくなかった。そんな中で先生方に励まされながら受験勉強に 励み、山を忘れて取り組んだ。その一方で体力トレーニングにも一層磨きをかけた。しかし、前年秋からのお腹の痛み は未だに続いていた。病院に行って検査を受けたところ、十二指腸潰瘍と診断された。幸い手術や入院はしなくてもい い事となったが、しばらく薬を飲み続ける事となった。

 ’92年に入り、受験勉強が大詰めとなった。センター試験では特に得意教科の調子が悪く、芳しくなかった。したがっ て2次試験前期に受けるはずの本来目指していた大学を、この年は諦める事とした。しかし何を考えたのか、それとも 試しに本州の大学を受けてみるだけ受けてみたかったのか。代わりに受けたのは岩手大学工学部であった。又、2次 試験後期は北海道のある工業大学を志望した。頑張った甲斐あったのか、遂に岩手大学工学部応用分子化学科に 合格した。当時はまさか合格できるとは思わなかった所だった。周りから祝福され、その気になってしまった。結局雰囲 気に妥協し、18年間住んでいた札幌を離れる事となった。しかし自分には本当に行きたい大学があり、目指さなければならなかった所だが、当時周りから見れば「私大に入れれば十分」といった所でしかなかった。


<大学入学、初の大雪単独縦走達成!> ’92.4〜’94.8

 初めて来た岩手でいきなり恐るべき事実が発覚した。私の来た学科の留年率は40%以上であるという事だった。更 に付け加えると潰しが利かず、道内で就職するのが難しいという事だった。「何て馬鹿な事をしたんだ」と思った。そもそ もスタートからしておかしかった。何とお金に困らない様にと新聞配達を始めたのであった。親に苦労をかけたくないな らどうしてこんな所に行ったものなのか。次第に同級生ともうまくいかなくなり、そして授業についていけなくなった。大学 にはまじめに通っていたのだが。

 一方、サークルは山岳部やワンダーフォーゲル部ではなく、岩手自然の会に入った。その中で近郊の山を時々登っ たりした。特にゴールデンウィークの和賀岳・薬師岳の3泊4日の山行は楽しかった。私にとって久々の山小屋での泊り 山行となった。6月1日には単独で姫神山に登り、(500m以上の山では)これが初の単独山行となった。他にも裏岩 手縦走路の三ツ石山等にも登った。高校の時まではしっかりトレーニングは続けていたが、岩手に来て同じ環境ででき るところは近くになかった。いわゆる有酸素運動がうまくできなかったのか、札幌にいたときでは考えられない程の激太 りをした。新聞配達は3ヶ月しか続かず、夏休み前にやめた。

 夏休みはすぐ札幌に戻った。正直言って大学をやめて本来自分の行きたかった大学を受け直し、再挑戦しようと思 い始めた頃だった。この夏の山行は正直言って不甲斐ないものだった。すべてにおいてめちゃくちゃだった。買ったテ ントはライトエスパースの4・5人用、3.5kgもあり1人で行くには重過ぎる。計画は十勝連峰縦走で、十勝岳温泉から 入山し、富良野岳・十勝岳・美瑛岳を越え、最後にオプタテシケ山を往復するものだった。2年前にガソリンストーブの 火災で敢え無く登山口で中止となった。そのリベンジのはずだった。いざアプローチするもの、上富良野行きのバスに 乗り遅れたために予定の十勝岳温泉行きのバスにも遅れ、次のバスまで2時間程あった。すぐ登山口に向かいたいが ためにタクシーを使うや、登山口出発が16時過ぎになるや、暗くなりかけたので富良野岳往復を諦めて小屋までの無 謀とも言える夜間行動をとるわとひどいものであった。挙句の果てに、翌日十勝岳に立った後下山して縦走を諦めた。 初の2000m以上の山における単独山行となったが、テントに加えて体重も重く、それで行動が余りにもひどいものと なった。

 8月末に高校をやめて以来遠ざかっていた山岳部の部室を訪れた所、驚くべき事実が発覚した。前年に風の噂で聞 いていたが、私がやめてから2年生の男子部員がどっと入り、彼らによって大縦走とも言える大雪縦走(黒岳〜忠別岳 〜トムラウシ山)が行われた事がわかった。その内容は私がこの夏に行った十勝岳の山行とは比較にならないものだ った。又、部室にはその時の集合写真も飾られていた。発奮する程大いに刺激を受けた。「来年はその縦走以上の大 雪縦走をやるぞ!」と思った。9月に入り、期末試験のシーズンとなった。試験は一通り受けたが、結局成績は最低と いって良く、「退学」を決意するようになった。

 後期に入るとだんだん大学に出て来なくなってきた。登校拒否ならぬ登学拒否と言える程だ。ここまで10kg以上も太 ってしまい、それを何とかしようとほとんど絶食による減量を行った。2ヶ月で10kg程減量できた。山の方は10月上旬 に岩手山から八幡平の縦走をサークルで行った。実際の区間は天候の関係等で岩手山の西の方にある姥倉山から 八幡平手前の藤七温泉となった。私の方は一人で無駄な食べ物等考えてないといえる程の重量を背負い込んでバテ テしまい、元山岳部とは思えぬ醜態を晒してしまった。それからというもの、とにかく結果を出したいと思う様になった。 11月上旬に何と裏岩手〜秋田駒ヶ岳の縦走を行おうとしたが、松川温泉を出発したのが夕方近くで、暗くなってきた 上に積雪があったので結局引き返した。冬休みが終わり、そして後期の試験も終わった。結局単位もさっぱり取れず、 家族に退学の相談をしたが、「一つの事を最後までやらなければならない」と反対され、次年度も在学する事となった。 高校時代のスタートは決して悪いものではなく、1年の時はまだ状態も良好であった。それが大学ではいきなり躓いた 格好となり、卒業が絶望と思えた程だった。

 ‘93年、気を取り直して授業には出るようにはなったもの、希望を見出すのには遠い状態であった。そんな中、大雪 縦走に向けて着々と動いていた。5月中旬にいきなり仙台に遠征した。泉ヶ岳〜船形山の縦走だったが、残雪がことの ほか多く、船形連峰への登りで迷ってしまった。結局危険な沢下りで何とか林道に出たが、なんとその沢は途中で伏流 して消えてしまったのだ。またしても失態を演じてしまったが、翌月の中旬にはつぶ沼からの焼石岳往復を成功させ た。それを皮切りに下旬には馬返しからの岩手山の1泊山行も行った。

 そして夏休みに入ってすぐに大雪単独縦走を行った。沼ノ原〜トムラウシ山往復〜表大雪の3泊4日の縦走で、アプ ローチにタクシーを無駄に使ったり、そのあおりでお金がなくなり下山後温泉に入れなかったりと悪い点もあったが、ま ともなカメラを持って時には三脚とセルフタイマーを用いて自分の証拠写真を残す等、現在に引き継がれるものもあ り、紛れもなく初の単独本格縦走として記念に残る山行となった。いわゆる、「縦走元年」である。しかし、夏休みに行っ た山行は8月下旬に岩手山小屋番のアルバイトをやったせいか、他には札幌の砥石山だけで少々物足りなかった。

 その反動か、後期が始まってすぐに前々から憧れていた山域の一つである尾瀬に行った。初の関東以南の山行で、 4日間で至仏山・燧ヶ岳・平ヶ岳・会津駒ヶ岳と4座の日本百名山を駆け抜けるのだった。特に平ヶ岳は往復11時間の ロングコースで、充実して自信のつくものだった。この頃より「日本百名山」を意識するようになった。その後は八幡平 サイクリングを行った。この頃は頭の中は山ばかりで、山の事ばかり考えていた。「病膏肓」ならぬ「山居膏肓に入る」 状態であった。山行を成功させる事で自信を取り戻そうとしているといっても良かった。したがって大学での成績はさっ ぱりで、前期の成績を返してもらう時に担任教官に「大学やめた方がいいんじゃない」と、同期一同がいる前で言われ た程だった。

 ’94年になり、普通なら大学卒業への目処が付き、卒業への確信が持てるはずである。それが未だに付かないでい て、持てないでいた。授業も前年より同期より1つ下の学年の方々と受け、自分自身同期の人と親しくしている人が1人 もいない状態だった。そんな事はよそにこの年は山だけは走っていた。サークル内に「山の会」なるものを作り、次々と 近郊の山行を行っていった。そんな中で日帰り単独縦走である秋駒乳頭縦走(秋田駒ヶ岳〜乳頭山)も行った。その後 山の会で早池峰山に行ったりもした。

 そして再び夏を迎え、休み早々に本州で初の本格縦走となる飯豊連峰縦走(大石〜3差岳〜大日岳・飯豊本山〜川 入)を行った。天気も良く、充実した縦走となり、その後磐梯山にも登った。岩手山小屋番のすぐ後に大雪横断単独縦 走(二ペソツ山往復、石狩岳〜トムラウシ山〜十勝岳・富良野岳)を行った。5泊6日の縦走を達成したが、トムラウシ 山の手前以降天気に見放された。それでも次につなげようとし、前年より縦走の完成度を高めた。「旅」という視点から 見ても充実させてきたといえるものとなった。


<大雪からアルプスへ、南ア全山縦走2度にわたる挑戦> ’94.8〜’97.8

 大雪縦走に飽き足らず、「大雪の次はアルプスだ」と思い、日本アルプスでの縦走計画を練り始めた。最終的には南 アルプスの方向となったが、その内容はこの本文で書かれる南アルプス全山縦走そのものだった。秋になり、札幌出 身で山の会にいる獣医学科の人(出身校は私のやめた高校)と2人で、車で鳥海山・月山・栗駒山とを遠征した。一 方、大学の方はほとんどすべての授業に出席した。それでも成績はさっぱりで、卒業への目処が全く立たない状態であ ることには変わらなかった。相変わらず「山居膏肓に入る」状態でしたから。それでも「(自分の行きたかった大学の)大 学院を目指すぞ!」とか、「今年入れてあと3年で卒業を目指すぞ!」等と思って気を高めようとはしたが、山が中心で はどうにもならなかった。例え山をすべてやめ、すべてを勉強に打ち込んだなら、それ相応の結果がなければ意味がな い。つまりただ大学を出てそのまま就職したのでは意味がないと思った。

 ’95年に入り、春休みの4月上旬に不甲斐ないどうしようもない自分に喝を入れるため、ひそかに九州に行き、霧島 山登山の後に屋久島に向かったのだった。それが大学時代で最も恥ずかしい、誰にも言いたくない出来事が起こるべ くして起こった。宮ノ浦岳下山後、宮之浦で陸の空き地にテントを張れば良かった所だった。その場合、最悪でも怒られ るだけで済んだ所だろう。それを川岸に張り、増水してテントごと船の如く流されてしまったのだ。幸い河口に出る前に 自力で脱出し、うまく泳いで岸に這い上がれたもの、買ったばかりのゴアテックスエスパース(ゴアテックスのテント、2・ 3人用で2.2kg)を始め、金額に換算すると10万円もの損失となった。更に往復の飛行機代を含めると、旅全体を損 失したとして約20万円もの損失となった。尚、この旅程中の霧島山と宮ノ浦岳については、自分の記録にはカウントし ていない。

 命からがらの大恥だった。その後の自分は大ショックだったのか、全く生彩がなくなった。それでも少しずつお金を貯 め、カメラや登山用具、更にはゴアライトの2・3人用(1.6kg)までも揃えた。用具は揃っても体と心が揃わなきゃどう にもならない。これまでになく太り、生活リズムも狂った。「山の会」をリードした頃には考えられなかった事で、サークル にも顔を出さなくなった。山にも行かなくなってしまった。そんな中でも計画した南アルプスには行こうと思った。だがこん な状態では南ア全山縦走等実現できるはずはなかった。

 7月下旬、夏休みが始まってすぐに出発、何と縦走の前に大菩薩嶺を往復した。そしていざ南アルプスへ、夜叉神峠 登山口からの最初の登りでもひいひい言いながらで、縦走初日は夜叉神峠で泊った。翌日の出発も遅く、鳳凰三山・ 早川尾根を越えるのに3日間かかった。おまけに栗沢山から仙水峠へ下る所を北沢峠方面に誤って下りてしまい、疲 れも取れず気力はダウン。結局甲斐駒ヶ岳さえも登らず、北沢峠に下りた所で断念してしまった。その縦走の途中、太ってひいひい言いながら進む私を見て「三伏峠で北と南に分けて縦走した方がいいんじゃないか」と言った人がいた位 だった。その後は気を取り直して朝日連峰縦走を中心とする南東北山行を行った。当初は朝日連峰を先に行って、吾 妻連峰・安達太良連峰・蔵王山とを周る予定だったが、悪天候のため結局朝日連峰を最後にした。ペースはいささか ゆっくりながらも無事に行う事ができた。その後は徐々に体も心も整え、大学の勉強の状態も良くしようとはした。

 ’96年になり、前年と比べて状態は良くなったもの、まだまだと言える状態だった。より授業に出て取り組む様になっ たもの、今一つぱっとしなかった。その一方、南アルプス南部の交通の便が図れることがわかり、逆コースで計画を立 てた。だが全山縦走挑戦は時期尚早と判断、挑戦を見送った。代わりに行ったのが、奥秩父主脈縦走であった。東は 雲取山から西は瑞牆山まで駆け抜けるもので、前年と比べて復調の兆しは見えてきたといっていい内容ではあった。 頑張りが利くようになった。しかしこの年に行った山行はこれだけでしかなかった。この年に万全のコンディションを整 え、南ア全山縦走に挑戦できたならきっと達成していただろう。

 自身の低迷で達成がずいぶんと遅れてしまった。このままではいけない。まず体を何とかしなくてはならない、そして あと2年で卒業したい。高校中退者だからといって8年在学はいやだ。そういう思いが強くなった。高校2年の秋頃から かかった十二指腸潰瘍の症状が未だに治まらない。’91年に一時病院に行ってはいたが、風邪のように簡単に治るも のではなく、完治には至らなかった。それらを何とかするために大麦若葉エキス(活性酸素除去作用がある)を始め、 玄米スープやビタミンサプリメントを摂り、きなこココアの減量食品で減量をしていった。体調は良くなり、徐々に体重も 減ってきた。

 ’97年春になった。この1年で4年進級に必要な単位をすべて取り、翌年4年に進級して卒業研究を行い、卒業論文 を完成させてめでたく卒業となるのである。つまりこの1年間頑張って進級すれば初めて卒業への目処が付くのであ る。私の同期で翌年進級を目指す者が1人いたのである。他にも同期の人は数名いたが、ほとんどが出たり出なかっ たりで、卒業の目処が付いていなかった。私は彼と共に授業にも実験にもこれまでになく打ち込む様にして出た。ここで 進級できなければ気力がなくなって卒業できなくなるだろう。「8年かかるんじゃ(卒業する)意味がない」とさえ思った。

 体の方も整い、潰瘍の症状が治まってきた。そして体重が一番太っていた頃と比べて約25kg減り、高校時代並みに 戻ったのだ。山の方は忙しくてなかなか行けなかったが、大学入学した年に登って以来の姫神山に久々に登った。夏 休み、いや南ア全山縦走1週間前に演習山行として岩手山八幡平縦走を行った。2泊3日で、金曜日は午前中で授業 が終わったので午後に出発した。地の利をうまく使った縦走といえ、又、長らくやりそびれた縦走の一つであり、ようやく であった。’92年にサークルで行って以来であった。4年に進級すると卒研で忙しくなり、山もほとんど行けないと思い、 この夏がすべてだと思った。したがって、南ア全山縦走の他に特に行きたい山にもできるだけ行こうと思い計画した 所、屋久島を始めとする南九州と、北海道の北日高と芦別岳にも行くという、総旅程1ヶ月近くとなるものだった。名付 けて「’97 夏の陣 スーパー山旅」とした。

 夏休みに入ってすぐに出発し、南ア全山縦走に取りかかった。しかも縦走初日が梅雨明けで、’95年とは違い、鳳凰 三山・早川尾根を快調に飛ばし、甲斐駒往復の後に仙丈岳から仙塩尾根をたどり、ようやく念願の北岳に立った。ここ では天気は最高で、富士山を始めとする大パノラマを楽しめた。だが、縦走達成の雲行きが台風情報によって怪しくな ったのだった。それでも間ノ岳・農鳥岳を登り、塩見岳を経て縦走中間点の三伏峠まで来た。ついに台風接近、大荒れ となり、しかも台風の進度が遅く、しばらく悪天が続きそうな模様だった。一般に梅雨明け10日は天候が安定するとい われるだけにこの台風は想定外で、梅雨明け10日所か1週間以内で天気が崩れたこの様に嘆くしかなかった。

 結局縦走を開始して7日目で三伏峠からエスケープし、全山縦走を残念ながら断念してしまった。それでも三伏峠を 境に北半分をやった事となり、南半分をやれば全山登った事になるが、私は全山縦走をもう一度最初からやり直し、文 字通り「全山縦走」としたかった。’95年に言われたあの言葉が頭に残り、その通りになって欲しくない、いや絶対なら ない様にしてやると思った。単独縦走の限界に挑戦すべく、いつかは再挑戦してみたいと思い続けた。下山後は中央 アルプスの木曽駒ヶ岳のほうに足を運んだが、もの凄いガスと霧雨で、頂上まであと1kmの所で断念した。昼間にもか かわらず小屋は登山者で一杯だった。それから飯田周辺の山村めぐりなどをして時間を潰した。その間はずっと天候 がすっきりせず、「今回はついてなかったな」と諦めざるを得なかった。

 一旦名古屋に向かい、そこから飛行機で一気に鹿児島まで飛んだ。やっぱり’95年の大恥を新たな思い出を作る事 によって上から塗り潰し、あのしこりを抹消したい思いが強かったのだろう。鹿児島からまず薩摩半島を南下、「薩摩富 士」開聞岳に登った。海を望む大展望見た後は南国ムード満点の長崎鼻に寄った。鹿児島に戻り、フェリーでいざ屋久 島へ。森林軌道から大株歩道を登って行き、あの巨大杉「縄文杉」とご対面。いよいよ稜線に上がったが、天候が悪化 した。宮ノ浦岳には何とか登ったが、カメラが壊れてしまい、それでも辛うじて証拠写真は撮れた。下山後にはまたして も台風情報が出た。予定が狂ってしまったが、大川の滝に入った。何とかフェリーで鹿児島に戻り、それから霧島連峰 縦走に挑戦したが、高千穂峰手前の火口壁に出た所で台風による強風のため縦走をまたしても断念した。しかも、5・ 6時間の車道往復は骨折り損のくたびれ儲けとなった。宮崎から羽田に戻り、盛岡へ戻った。尚、カメラは次の北日高 縦走のために安くても最小限の機能が付いているやつを鹿児島で買った。

 数日後、今度は八戸からフェリーで苫小牧に渡り、北日高に向かった。最後はタクシー相乗り約40kmの末に車止 めに着き、更に先の取水ダムからは沢歩きとなった。増水した沢での高巻きや腰まで浸かる渡渉の末に幌尻山荘に 着いた。翌日はいよいよ稜線に向けて登り、ついに幌尻岳の頂きに立った。’90年、高校2年の時にこの山の計画が 一時持ち上がった。あれから7年、ようやくであった。そして北日高の大展望を楽しんだ。これまで大雪の主なピークで もこれ程までの大展望は楽しめなかったのだが。その後は原始郷七ツ沼カールに下りた。更に稜線を北上、戸蔦別 岳・北戸蔦別岳を経て稜線上でビバークした。1967m峰・ピパイロ岳、更には伏美岳でも大展望を楽しみ、林道まで 下りた。結局2時間の林道・車道歩きの末にうまくヒッチハイクでき、帯広の西隣の芽室に出た。温泉に入った後に富 良野の手前の山部まで移動し、芦別岳を往復した。何と頂上直下でヒグマを目撃したのだった。最後はレンタサイクル で富良野周辺めぐりをした後に「’97 夏の陣 スーパー山旅」は幕を閉じた。


<ついに4年次進級、そして南ア全山縦走再挑戦へ> ’97.8〜’98.8

 そして前期試験に向けて勉強し、充分な単位を獲得した。後期に入り、更に単位取得・4年進級に向けての取り組み は白熱した。冬になり、年も明けてから私の同期のもう一人が体調を崩してしまった。そんな中でも自分は粘り強く食い 下がり、後期試験を受けて進級に必要単位をもぎ取る事ができた。残念ながら彼はあと一歩のところで届かなかった が、春休み期間中にある研修(これも進級の条件の一つ)は私と共に受けた。これは英文の論文の訳から始まり、内 容理解・OHPシート原案作成・OHPシート作成、そして発表練習と研修発表まで1ヶ月以上に及んだ。ついに研修発表 を終え、私は4年進級を果たし、研究室配属となった。やっと卒業の目途がついたのである。

 そして卒論のテーマが与えられ、それをもとに卒研に打ち込む日々となった。しかし明るい材料ばかりではなかった。 道内では前年の暮れに拓銀が破綻し、就職戦線が一層厳しいものとなった。特に留年をしてきている自分にとっては 更に厳しく、その上道内大学でないとなれば尚更だった。それだけに公務員試験というアプローチが一番と言えたが、 決して生易しいものではない。しっかり準備して目指そうとしなかったのが悔やまれる位だ。現実的に一番いいと言える のは首都圏や東北・岩手からの学内に来る求人だった。それに学卒ともなれば目指せれる職種もほとんど工場関係で あった。それしかなく、道内は無理だからやめろとまで言われた。

 本来ならもっと早くに対策を講じ、より早く進級すればこのような事にはならなかった。ここまで遅れたのではもはや4 年に進級してからでは後の祭りだった。しかし、元をたどれば道内の目指すべき大学を目指し、将来道内で活躍したい と思った者、高校時代の躓きで本州行きを決めてしまったものだ。元は目指したのは医者、本州で埋もれた人生を送り たくないと思った。そんな中、「いわて起業家大学」の学生セミナーに参加した。血湧き肉踊る内容で、「これしかない」と 思った程だ。就職活動は6月に道内の1社を受けたが結局ダメだった。やはり大学の求人と比べ、限られた情報では 限界がある。もう一度すべての人生を道内でやり直そうと思った。

 一方、体の方はできるだけトレーニングして調整し続けた。残念ながら前年の時に比べて10kg近く増えてしまった。それでできる限り太らないようにした。もし山ができるなら北アルプスの立山連峰〜笠ヶ岳か大雪縦断(十勝連峰〜表 大雪)の縦走をやろうと思っていた。7月1日、研究室の夏休み日程の目処がついた。2週間程ある事がわかり、即「南 ア全山縦走を再挑戦するしかない」と思った。少しずつ南ア全山縦走の準備を進めていった。7月19日・20日には青森の岩木山・八甲田山に演習山行を兼ねて行った。近くにある岩手山は火山活動のために登山禁止となっていたから でもあった。研究室の中間発表会も終わり、ようやく夏休みに入った。大学時代最後の夏を全山縦走で締めるべく、そ して単独縦走と自分の体力の限界に挑戦すべく、これまでにないビッグなスケールで南アルプスの北から南までも闊歩 するのだった・・・・・。




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