就職活動していた矢先に郵便局非常勤職員の案内が来た。ポスタルメイトに前々から私の名前だけは登録していたのだ。そのおかげもあり、5月から内勤で働く事になった。短時間職員で就職活動しながらだった。しかし時間給も低いため、小遣い程度の稼ぎでしかなかった。しかしなかなか就職は決まらなかった。しかも11月一杯でその職を追われたのだった。12月のアルバイトもひどいものだった。「トレーラーの荷下ろし」や「食品工場内作業」で、仕事も時々しか与えられず、稼ぎも12月繁忙期とはとても思えない5・6万円程度と悲しくなるものだった。その後は失業保険をもらったが、元の給与が安いため微々たるものだった。
<00年、大雪縦断縦走達成!ようやくの就職、だが・・・・・>
就職活動しているうちに職業訓練という手もある事がわかった。それは失業保険をもらいながら訓練を受け、就職活動を優位にしていくものだった。他の面接先と共にダメ元で受けてみた。そうした所、第2志望の学科に決まり、4月より行く事になった。学科はFA(ファクトリ-オートメーション)システム科で、工場生産自動化システムの内容だった。20代から50代と色々な年齢の方々が集まり、和気藹々と授業・実習に取り組んで行った。7月に入り、就職が決まって訓練終了する者が出始めた。ある時千歳の半導体工場への求人があった。職種は生産技術であった。私も面接希望したが、同じ学科でもう1人志望する者がいた。8月に入り彼と一緒に面接を受けた。
そして夏休みには大雪縦断縦走を行った。これまで大雪は2回縦走したが、これは十勝連峰から表大雪を北上する完全縦走だった。そして縦走が終わり家へ電話した所、千歳の工場への就職が決まった事が伝えられた。大学時代「北海道での就職は無理」とまで言われたが、ようやく宿願を果たす事ができた。千歳は札幌から近く週末には帰れる。とはいっても家から通うにはきついものがあり、独身寮に入る事にした。これにより私は8月一杯で訓練は終了し、9月より千歳に移った。早速クリーンルームの生産現場に配属され、様々な訓練を受けた。何から何まで新鮮であり、早く慣れようと無我夢中であった。
所が試用期間が終了する11月の末にして急に次長から言い渡された。「向いていない」、一方的な事実上の解雇通告であり、しかも自主退職にさせられるのだからたちが悪い。突然の解雇、それも前年と同様11月末の解雇に余りにもショックを受けた。折角決めた会社であり、無欠勤・無遅刻、失敗が多かったとはいえ、ここまでの扱いをされなければならないのか。こうなってしまえばどうしようもないといっていいものだった。もはや専門分野への転職は厳しい。
しかし、厳しい現実は待ったなしに訪れたのだ。その会社は給与が前払いのため、これで収入が途絶えた事となった。「前年の様な悲惨な仕事はやりたくない」、その思いを胸に札幌に引き揚げてから咄嗟に見つけた仕事は宅配便の配達だった。切羽詰っていたため無我夢中で仕事に打ち込んだ。でもはっきり言って気が狂っていた。「次長を殺してやる!」という気持ちで一杯だった。一生懸命だったもの乗用車持込であり、自分の大きくない車では稼ぎも決して良くなく、朝から深夜まで働いても月10万円余りで、「とりあえずお金ができた」程度だった。
<01年、惨憺たる労働条件、山にも行けず(泣)>
やはりあれで終わりなのは許されない。30日以内に解雇する場合は日数分の解雇予告手当てを支払わなければならない。直前なら30日分だ。それをさせないために自己都合退職にさせたのだからやり方が汚いし納得できない。電話で相談した所、まず会社に折衝しそれでダメなら労働基準監督署に申告するものだった。実際は解雇同然なのだから。そして会社に折衝し、結局1か月分の解雇予告手当分支払われる事になった。その件は解決したもの自分の専門職の可能性は絶たれたもの同然だった。
3月中旬に別の会社に準社員として職が決まったもの、それは専門系には程遠い営業・事務系であった。商品の陳列という職種だったが、実際は営業補助だった。残念ながら自分には向いていない様で結局6月一杯で解雇された。なかなか職に定着できない。職を探していた7月10日に12月に宅配便のアルバイトをやった所から電話がかかってきた。「今暇かい?」、夏の間のつなぎでいいかと思い、またその仕事をやる事にした。失業保険もすぐには出ない事ですし。
そして夏に宅配便の仕事をやってから失業保険の手続きをし、北アルプス主脈全山縦走に出るはずだった。だがそこにはある下請けの社長(オヤジ)がいた。山に行く事を話したら「山には絶対行かせますからね」と言っていた。そして配達に打ち込んだもの、どうも違和感がある。すべてそのオヤジの指示で勝手に動けないのである。前年の12月の方がやりやすい。そう思いつつも仕事をやって行った。
お盆も過ぎそろそろ終りかという頃に「○○さんが来るまで待ってくれ」と言われた。実際仕事量が増えかえって忙しくなり、考える暇もなくなった。下旬に○○さんが来たがオヤジからは「もういいよ」とも言われずそのまま働かせられた。フェリーの予約はしていたもの結局そのまま流されてしまった。その後の仕事はメール便の配達等満足な量や稼ぎにはならないものであり、その癖に休ませられなかった。
10月のある日小路に3kl程度のタンクローリーが家のタンクへの給油のために道を塞いでいた。それを見て私もそれをやってみようかなと思ったりした。だが仕事は朝から夜までであり、考える暇もないというか麻痺していた。ある月の給料は何と10万円程度だった。あまりの少なさに愕然とした。縦走と引き換えにタダ働きさせられた様な物だった。しかも効率の悪いエリアで稼げず1日5000円に行かない時もあった。これではタダ働きのための歩合制である。
だが12月があるからいいと思った。その時に既に騙され、オヤジに洗脳されている様なものだった。12月の繁忙期を迎えた。荷物の量も半端ではなくアルバイトも何人か来た。しかし私には相変わらず効率の悪いエリアを渡され下手すればアルバイトにも負ける稼ぎとなった。実質1日1万円には届かない。しかも7:30から夜は0時近くに及ぶ事もあった。せめてもの救いは大晦日におせち料理の配達を負かされ、その日だけは16000円にもなった。
<02年、ついに念願の北アルプス主脈全山縦走へ>
1月ともなれば宅配便の仕事はぐっと減り、最低保障給のない完全歩合制ではどうしようもないものである。それに12月のピークで実質20万円も稼げないのではばかにされている様なものだ。千歳の工場の時は完全週休2日制で多少の残業で20万円程度は行くのに対し、あれは休みなしで朝から深夜まで働いてそれに及ばないのだから悲しくなる。来年はもっとましな仕事でに就こうと思ったのは言うまでもない!
「もうこれしかない!」、今年は進学試験を受けようと思った。このままじゃ就職はどうにもならない。本州の工場に行くか、それと営業関係になるか。もはや学資を作るために何年も人生を棒に振りたくない。転職の繰り返しの人生に終止符を打ちたい。もう我慢できない。1日でも、いや1秒でも早くリベンジしたい。お金さえあれば今すぐにでも進学して人生を塗り替えなければならないと思った。例え500万円もの大借金をしてでも。
私としては大学卒業5年以内に満足な結果を出さなければという目標は持ち続けていた。しかし、どの分野に進もうか正直言って迷っていた。学卒だからダメなのか、それとも化学系だからダメなのか。これまでの就職活動でバイオ系の会社がいくつかあった。それで生物学・薬学・医療技術系の転身さえも視野に入れた。まずは各学部の教務係に問い合わせ、その上で各研究室とコンタクトを取り、研究室を見学したりして目標を定めなければならなかった。
失業保険も残っているので3ヶ月は就職活動に専念する事にした。「勉強したい」と言い退職し、残っている保険の手続きをした。それからこれまでできなかった部屋の整理を行った。だが実際は廃人状態に近いものがあった。ネット閲覧をするか始めたばかりのネットゲームに没頭している状態だった。あれだけ半年間朝から深夜までひたすら働いてろくに稼げないのだから見返りがなさ過ぎるというか悲し過ぎる。そのギャップが激しかったのか。それでもその間に大学の研究室を見学したりしたが、残念ながら自分にとっては希望の持てるものではなかった。4月になって保険が切れても一向に就職できる気配がない。GWはたっぷり時間はあるが、情けない事にお金がなくて遠征にも行けない。又、6月に別の研究室を見学した。一時はそこに進学する事も考えた。
ついに7月になった。このままでは資金がないので念願の縦走・遠征にも行けない。アルバイトでもして資金を稼がなければならなかった。短期のアルバイトを探したが、なかなか見つからなかった。情けない事にまたしても同じ宅配便の所に夏だけ頭を下げてお願いしてもらう事にした。ただ前年の様に9月以降はやらない事にした。やはり例のオヤジがいて「8月一杯は山に行かせない」と言っていた。それから朝から晩まで日々打ち込み、資金を作っていった。お盆も過ぎると仕事の量が明らかに減ってきた。前年はしばらくあったが、このまま続けても埒があかない位だった。結局20日頃に辞め、縦走の準備をした。
出発の数日前、恵庭岳でザックを背負っての演習山行を行った。あの「ジャンダルム」そっくり(?)の岩塔には残念ながら登山禁止で立てなかったが、その手前までザックを背負って登った。更に2日前には余市岳に登った。しかし帰りに登山口のマイカーまで来ていながらそこでカメラをなくしてしまったのだった。縦走でメインとして使うカメラで、修理に出していたカメラを予備としていた。その予備を急遽ピンチヒッターとして出さなければならなかった。カメラ屋さんに行って取りに行った。そして食料を買い出したりし、最後の準備をした。出発直前、ザックの重量を体重計で測ってみたら40kg近くあった。水を入れれば確実に40kgを超えるだろう。史上空前の重量となった。
南アルプス全山縦走以来4年振りのアルプス縦走、大学を卒業して札幌に戻って以来、ついに長い沈黙が破られる時が来た。大学時代から構想があった究極的な大縦走、それも北アルプスの南は焼岳から北は親不知海岸までも駆け抜けるものであり、あの南アルプス全山縦走をも上回る空前の行程の単独大縦走である。しかも穂高連峰には危険な岩稜がある。それだけに体調がベストな時に臨みたいが、残念ながら体調もベストには程遠い、大学時代とは違いフラストレーションの塊であった。「ここまで来たのだから行くしかない」、いよいよ北アルプス主脈に向け、大いなる一歩が踏み出されるのであった。
| 前へ |